■生産者プロフィール
石川伸さん
 会社名 おとうふ工房いしかわ
 代表者名 石川伸(のぶる)
 所在地 愛知県高浜市
 大豆 国内産 フクユタカ(主に愛知県産)
 主要取扱商品 絹とうふ
木綿とうふ
寄せとうふ
きのこがんも
きんぴらがんも
 ■生産者ストーリー
石川伸さん だいずきっず倶楽部。
子供に安心して食べさせられるとうふが作りたいんだ。

だいずきっず倶楽部。愛知県高浜市で定期的に開催されるこの会は、地元の子供たちに大人気だ。いつも子供たちのうれしそうな笑顔と溢れんばかりの好奇心で満ち溢れている。
手作りとうふ体験や農業体験など、「食」に関わる様々な活動を通して、日本の伝統的な食文化を守り、食べ物の正しい知識を身につけてもらいたいという趣旨で開催をしている。
この会を主催しているのは、石川伸。食育、地域貢献のため、こうした活動を精力的に行っているのは、実はとうふ職人だ。
 ■生産者 石川伸からのメッセージ
「とうふ屋なんてやるもんか!」
とうふ屋であることが、嫌でたまらなかった。


石川伸さん 「私の曾祖父にあたる兼三郎が明治24年に、石川豆腐店としてとうふ作りを始めました。大豆農家を生業とし、地域の中では必要不可欠な『町のとうふ屋』として、100年以上もの長い間、4代にわたって続いてきました。
とはいえ、当時のとうふは家庭料理の一つ。とうふは各家庭で作られていましたので、私の父の代までは農業の傍らでとうふ製造をする兼業農家でした。
小学3年生の夏休みの日記に、毎日のスケジュールとして朝6時30分からラジオ体操、そのあと7時から12時まで「仕事」と書いてあったのを今でも鮮明に覚えています。とうふ屋には、休みがありません。両親とも働いているので幼い頃は私が一家の夕食を作っていました。
雨が降った日には、小学校に父親が前掛けゴム長姿で傘を持ってきてくれたのがたまらなく恥ずかしく、幼心に 「とうふ屋なんかやるもんか!」と当時はとうふ屋であることが嫌でたまりませんでした。サラリーマンの家にどれだけあこがれたことか…。

この状況から抜け出すには、東京の大学に進学するしかないと思い立ち、進学するものの入学したのはなぜか某大学の食品工業科。そして、就職したのは某商社系の食品メーカーでした。
あれほど「とうふ屋なんてやるもんか!」と幼い時に思っていたとうふ屋。そのことを理由に結婚を断られたことさえありました。
しかし、曾祖父、祖父、父、とずっと受け継がれてきた『石川豆腐店』の看板を父の代で終わらせてはいけないのではないかという思いがどこかにあったのかもしれません。27歳の時そんなとうふ屋である自分を応援すると言ってくれる彼女と出会ったことを後押しに、5年のサラリーマン生活を経て、家業を継ぐことを決意しました。
とはいえ、とうふ屋を継ぐのが嫌で外に出た身でしたから、頑固な父親が許してくれるのか不安でした。

でも、父は何も言わずに私に石川豆腐店の看板とお客さんの名前の入った台帳を手渡してくれました。

母親は一言「男気を持て!」と私を励ましてくれました。
ここから、私の本当の意味でのとうふ屋人生が始まりました。」

今自分の作っているとうふを、この子に食べさせていいのだろうか・・・・。

石川伸さん 「とうふ屋には休みもなく、重労働の割には売上はなかなかあがりません。はじめた当初、「やるんだったら日本一のとうふ屋になりたい!」という想いから、当時年商3000万円ではありましたが、5000万円の借金をして機械設備を導入しました。結果、とうふは大量にできるようにはなりました。
しかし、なかなか売れません。地元のスーパーなどを回っても、アポイントさえ取れない日々が続きました。

バイヤーには『大手には勝てないよ。やめたら?』とも言われ、辛い日々が続きました。

そんな中、長男が誕生しました。

これが私のとうふ人生を大きく変えるきっかけとなります。
ある日子どもの寝顔を見ていてふと「今自分のつくっているとうふをこの子に食べさせていいのだろうか…」という思いが起こりました。
確かに、機械設備を入れて「量」をつくることはできるようになったかもしれない。でもこれは、自分の金儲けのことばかり考えてやったことで、この人に食べてもらいたい、安心して食べてもらいたいという想いを、自分は忘れてしまっていました。

「子どもに安心して食べさせられるとうふ」この言葉が、私のその後のとうふ作りの大きなテーマとなりました。

そして、素材にこだわることを重視した結果、

「国内産大豆」と「にがり」だけを使ってとうふを作ろうと思い立ちました。

でも、どうやったら、「にがり」でとうふが作れるんだ?

石川伸さん 先代に聞いても、「にがり」の使い方を知る人は誰もいませんでした。当時、にがりを使って作るとうふはなかったのです。
戦争中、にがりは軍需用品として使用され、一般に使用することが禁止されておりました。代わりに、当時とうふ作りに使われていたいわゆる凝固剤は、硫化カルシウム、石膏でした。しかし石膏(硫化マグネシウム)は、強い凝固力は持っていても、大豆本来のもつ旨味を引き出すことはできませんでした。
さらには昭和40年代になると、自由貿易で一番に解禁になったのが大豆でした。目的は搾油であったものの、それまで50万トン作られていた国内産大豆は大打撃を受けました。
それ以降、とうふと言えば「輸入大豆」と「硫化カルシウム」との組み合わせが当たり前となっていました。

先代である父が昭和8年に生まれ、とうふ製造に従事した時にはにがりとうふは既に消滅してしまっていたのです。石川豆腐店として、にがりを使ったとうふを作ったのは、すでに亡くなっていた祖父の銀一が最後でした。

ついに完成。「子供に食べさせたいとうふ」

石川伸さん しかし、私は「子どもに安心して食べさせられるとうふ」を目指し、独自でにがりとうふの研究を始めました。閉鎖的なとうふの業界では誰も教えてくれません。大昔に書かれた文献を読み、試行錯誤を繰り返して、豆乳の炊き方を覚えました。
しかし、一番の難問はにがりの打ち方でした。

石膏を使えば10秒かかる凝固も、にがりを打つと豆乳は3秒で固まります。たった3秒の間で、50リットルの豆乳に、にがりを均一を混ぜ込むことは至難の業でした。

最終的に考え出したのが「櫂(かい)寄せ」

という方法でした。和舟を漕ぐ櫂(かい)の小さいもので桶の中の豆乳をかき混ぜ渦をつくります。頃あいを見て、櫂を垂直に立ててやると、横方向に渦巻いていた豆乳は突然の障害にあたって、今度は縦方向に流れが変わります。そのタイミングでにがりを打つのです。にがりの量は1%、豆乳10リットルに対して100gです。
こうして、自分が「子どもに食べさせたい!」と思ってつくってきたとうふが完成しました。

人に食べてもらいたい、お客様に食べてもらいたい、と長年『町のとうふ屋』としてやってきた先代の気持ちに気づく

石川伸さん とともに、この気持ちを忘れないため、最初につくったこのとうふを、祖父「銀一」の名前をとり、「銀」と名づけて店頭に並べました。
こうして、世代を超えてにがりのみを使ったとうふがここに復活したのです。

しかし、とうふ一丁50円の時代に、一丁150円のとうふは一日僅か30丁しか売れませんでした。

それでも、その美味しさは近所の人達から次第に口コミで広がっていき、ある時地元のフリーペーパーが取材に来ました。高いが旨いとうふを作っている店があるという評判を聞きつけてのことでした。
ある日、そのフリーペーパーを見て、ある小売店の店長が訪ねてきました。バブル崩壊後、小売店はディスカウントと量販店の両方に流れていきました。
しかし、その店長も

『価格訴求のとうふばかりでなく、旨さに重点を置いたとうふを置いてみたいと思ったんです。』

とうふ売場の1割をもらいました。後の9割は大量生産された石膏と輸入大豆のとうふです。次第に売場が2割3割と増えていきました。お客様の口コミはもちろん、大きな影響を及ぼしたのは店のパートさん達からの情報でした。
体を楽にしたい、金儲けがしたいと思って機械を入れ、売りに回った時には売れなかったとうふが売れ出したのです。

ちょっとぐらい高くても、お客様に直接接して、自分の想いを伝えれば買っていただくことができるんだ

とこの時強く感じました。自分の欲を離れ、高くても旨いとうふを作ったことが自分の大きな転機となりました。

国産大豆を求めて・・・自分の足で農家を何件も回りました。

石川伸さん その後、いろいろなこところからお声がけをいただけるようになりましたが、

国内産大豆が足らなくなってきました。

自分達の初心を忘れず、「子どもに食べさせたいとうふ」を作り続けるために、直接の生産者とのつながりを求めて自分の足で農家を何件も回りました。
農家と親しくなり、薫製の鮎を肴にどぶろくを飲み、夜中共に語り合い、農業の勉強をしていくうち、次第に、これで飯を食い、生活している農家がいることに気づきました。消費者・とうふ製造者の視点だけからではなく、農家の視点から農業を見ることができるようになってきました。
生産者との絆を深めると共に、長年に渡って収穫期を共に過ごす中で、互いの信頼感が育まれていきました。

毎年、私と共に、とうふ作りに従事してくれている皆を連れて、契約農家さんのもとに「農泊」をしております。

播種、草刈り、収穫などを体を使って、お手伝いするのです。
その作業や、「草の萌える香」を通して豆の袋の先には、「いい大豆を作ってくれる人がいる」ことを実感する。そんなところから、自然発生的に互いに協力したり「ありがとう」を自然に言える関係が仲間の間で伝播していきました。

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